はてなの11.8億円流出はボイスフィッシングが起点-偽警察の電話・遠隔操作・二段階認証突破・正常性バイアスの悪用を徹底解説

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はてなの11.8億円流出はボイスフィッシングが起点-偽警察の電話・遠隔操作・二段階認証突破・正常性バイアスの悪用を徹底解説

株式会社はてなで発生した約11.8億円の資金流出事案は、経理部長の私用携帯にかかってきた一本の電話、すなわちボイスフィッシング(ビッシング)を起点として引き起こされました。単なる「なりすましメール」では説明できない、電話による心理操作と複数の技術を組み合わせた巧妙な手口です。2026年7月24日に公表された特別調査委員会の調査報告書は、詐欺グループが警察・検察を名乗る音声通話で経理部長個人の心理を段階的に操作し、正規の認証や職務分掌といった防御を一つずつ無力化していった過程を詳細に認定しています。本記事では、この事案で使われた手口の巧妙さを、ボイスフィッシングを起点とする心理操作・技術的な乗っ取り・認証突破・組織的な牽制の回避という側面に分解し、なぜ経験豊富な経理部長が2日間も気づかずに送金を続けてしまったのかを解説します。同種の被害を防ぐうえで、攻撃者がどこを狙うのかを理解することは、情報システム部門にとって極めて重要です。

サマリー

  • 本事案は電話(音声)を起点とするボイスフィッシング(ビッシング)に該当し、そこに技術的攻撃を組み合わせた複合手口
  • 手口は「なりすましメール」ではなく、偽警察詐欺を起点にした複合的なソーシャルエンジニアリング
  • 権威性(警察・検察)と恐怖(本人の逮捕)と孤立(家族への口外禁止)で正常な判断力を奪う
  • 事前に個人情報を把握し、偽の警察手帳・逮捕状を提示して信憑性を演出
  • 「凍結口座への振込だから戻る」という論理で送金への心理的抵抗を無力化
  • リモートデスクトップで端末を乗っ取り、正規アカウントの権限で送金を実行
  • 二段階認証は「捜査協力」の誤認により被害者自身の手で突破させられた
  • 被害者を別室に移動させ画面を隠すなど、周到な行動制御が行われた
  • 経理メンバーの正常性バイアスを利用し、組織的な牽制をすり抜けた

はてな資金流出事案の被害概要

本題に入る前に、今回解説する事案の被害概要を整理します。

項目 内容
被害企業 株式会社はてな(東証グロース:3930)
事案発生 2026年4月20日〜21日(2日間)
手口 ボイスフィッシング(偽警察詐欺)を起点とし、リモートデスクトップによる端末乗っ取りを組み合わせた複合手口
標的 経理部長(H氏)
Y銀行からの不正送金総額 1,179,810,000円(約11.8億円)
X銀行からY銀行への資金移動 940,000,000円
被害額の規模感 2026年7月期通期営業利益予想(1億3,600万円)の約8倍
発覚経緯 4月21日、取引先銀行からの連絡、および被害者本人が詐欺に気づき110番通報
情報流出 個人情報・顧客情報の外部流出は確認されず
業績影響 特別損失11億7,900万円等を計上、当期純損失7億6,700万円へ転落
調査報告書公表 2026年7月24日(特別調査委員会)

株式会社はてなは、経理部長の私用携帯にかかってきた警察を名乗る一本の電話をきっかけに、2日間で最大約11.8億円もの資金を外部へ送金してしまいました。これは同社の通期営業利益予想の約8倍に相当する、財務規模に対して極めて大きな被害です。

2026年7月24日に公表された特別調査委員会の調査報告書によって、その手口の全容が明らかになりました。以下、この事案で使われた手口の巧妙さを分解して解説します。

手口の全体像―2日間で何が起きたのか

まず理解すべきは、この事案が単一の手口ではなく、複数の手法を時系列で連鎖させた攻撃だったという点です。

一般に「ニセ社長詐欺」や「BEC」というと、社長を装った一通のメールで送金を指示する手口が想起されます。しかし今回の事案は、それよりもはるかに周到でした。調査報告書が認定した2日間の経緯を、時系列で追ってみます。

警察を騙る詐欺グループから電話

初日の2026年4月20日午前8時2分、経理部長H氏の私用携帯電話に詐欺グループから電話がかかってきました。

詐欺グループは警察を名乗り、大規模な資金洗浄グループを捜査していること、そしてH氏自身に資金洗浄への関与疑いがあり逮捕・拘留の可能性があることを告げます。いずれも虚偽でしたが、詐欺グループはH氏の氏名・生年月日といった個人情報を事前に把握しており、ビデオ通話で偽の警察手帳や検察官証、偽の逮捕状の写真まで提示しました。

栗栖社長や田中取締役も捜査対象だと告げ、家族への口外を禁じたうえで、以降のやり取りは「捜査協力」であると信じ込ませます。

リモートデスクトップをダウンロード

午前10時38分、H氏は詐欺グループの指示により、どのようなアプリケーションであるかを知らないままリモートデスクトップをダウンロードして実行しました。午前10時42分には外部からのリモート接続が確立され、詐欺グループがH氏の貸与PCを遠隔操作できる状態になります。この時点で攻撃者は、H氏の端末で正規にログインされたオンラインバンキングのセッションと、H氏がデスクトップのExcelファイルに暗号化せず保存していた各口座のID・パスワードを手中に収めました。

不正送金を実行

午前11時41分、最初の不正送金として、Y銀行のメイン口座から9,999万円が送金されます。詐欺グループは「これは凍結口座への振込であり、捜査の一環だから振込には該当せず、後で資金は戻る」と説明し、H氏はこれを信じて二段階認証を通してしまいました。

以降、Y銀行の各口座残高が枯渇するたびに、H氏は詐欺グループの指示でX銀行からY銀行へ資金移動を繰り返します。1回目の3億円の資金移動では田中取締役に「給与出金の準備」という虚偽の理由でチャット承認を得ましたが、2回目以降は承認依頼を省略し、経理メンバーへ直接データ作成を指示するようになりました。

この間、複数の防波堤が機能しませんでした。

経理メンバーのD氏は見知らぬ相手への振込に気づいてH氏に確認しましたが、H氏の「状況は把握済み、後で説明する」という返答で追及をやめています。Y銀行から田中取締役への「9,999万円の入金が3回あったが何か」という照会電話も、給与支払いのための資金移動だと思い込んで見過ごされました。詐欺グループはH氏をビデオ通話で常時監視下に置き、別室に移動させPCの画面を隠させ、夜間も通話を維持したまま就寝させて翌朝そのまま作業を再開させています。

翌21日午前11時、H氏はY銀行の窓口担当者と話すうちに冷静さを取り戻し、自ら詐欺の可能性に気づいて110番通報しました。この2日間で、Y銀行からの不正送金は合計11億7,981万円、X銀行からY銀行への資金移動は9億4,000万円に達していました。

この経緯を分解すると、攻撃は心理的な支配の確立、端末の技術的な乗っ取り、認証の突破、そして組織的な牽制の回避という段階で構成されていることがわかります。各段階で異なる防御を無力化しており、どこか一箇所で被害者や組織が踏みとどまれば被害を防げた可能性がある一方、攻撃者はそのすべての踏みとどまりのポイントを潰すように設計していました。

これは担当者個人の落ち度ではなく、組織の問題である

この事案を振り返るうえで欠かせない視点があります。それは、被害を「経理部長個人の落ち度」として片づけてはならないということです。

調査報告書が描き出したH氏の置かれた状況は、あまりに過酷なものでした。

長年経理を担ってきた前任者2名が本決算直前に突然退職し、引き継ぎもないまま属人化した業務を紐解かねばなりませんでした。

経理部長は長期労働の心労で休職し復職後に被害

入社からわずか4か月で経理部長に昇進したものの、部門マネジメントの経験は乏しく、経理部長として必要な体系的な教育も受けていません。2025年7月には残業81時間・休日労働59時間、8月には残業102時間・休日労働100時間という常軌を逸した長時間労働の末に体調を崩し、休職に至っています。

復職後も、自身の休職中に経理責任者が新たに採用されたことへの不安を抱え、会社との信頼関係が損なわれた状態にありました。報告書自身が、経理メンバーへのヒアリングとして「めちゃくちゃな状況で引き継いで大変だったと思う」「家にも仕事を持ち帰っている状況だった」という証言を記録しています。

復職して間もない時期に、心身ともに疲弊し孤立感を抱えた人物が、警察を名乗る詐欺グループから「あなたは逮捕される」と告げられ、家族からも切り離されて追い詰められる——この状況で冷静な判断を保ち続けることが、どれほど困難であったかは想像に難くありません。

詐欺グループは、まさにそうした心理的に脆弱な状態にある個人を的確に狙い、その弱みにつけ込みました。悪いのは、巧妙な手口で人を欺いた詐欺グループであり、過重な負荷の末に標的とされたH氏個人を責めることは本質を見誤らせます。

そして、より重要なのは、この事案が組織の問題であるという点です。

経理部長が短期間に二度も交代し、部長を含む2名が同時に休職するという組織の異常性

調査報告書も繰り返し強調しているとおり、たとえ一人の従業員が騙されたとしても、適切な内部統制が整備・運用されていれば、被害そのものを防ぐか、少なくとも被害額を大きく抑えることができました。オンラインバンキングの権限設定が経理規程どおり単独では送金できないものであれば、端末を乗っ取られても不正送金は成立しませんでした。承認上限金額が適切に設定されていれば、被害は限定的だったはずです。入出金通知が設定されていれば、異常を早期に検知できました。

さらに背景を辿れば、経理部長が短期間に二度も交代し、部長を含む2名が同時に休職するという異常事態が続いていたにもかかわらず、取締役会・経営会議・監査役会のいずれもその状況に潜むリスクを識別できていませんでした。

過重労働で一人の担当者を休職に追い込んだこと、復職明けに資金管理の全権限を戻す判断をしたこと、そもそも属人化を放置し内部統制の整備を怠っていたこと——これらはすべて組織の意思決定と体制の問題です。

つまり本事案の教訓は、「騙された個人にリテラシーが足りなかった」ではなく、「個人が騙されることを前提に、それでも組織として損失を防ぐ仕組みを持てていなかった」という点にあります。調査委員会が再発防止の基本方針として真っ先に掲げたのも、個人の自主性やリテラシーに依存せず、単独では不正・異常な送金が完結しない業務設計を行うことでした。人は誰しも、過重な負荷や巧妙な心理操作の前では判断を誤り得ます。

だからこそ、誰か一人の失敗が組織全体の致命傷にならないよう、仕組みで守る—それがこの事案が組織に突きつけた最も重い教訓です。

以下から手口の特徴を解説していきます。

巧妙さ①:権威・恐怖・孤立による心理的支配

攻撃の起点は、2026年4月20日午前8時2分にかかってきた一本の電話でした。詐欺グループはここで、人間の判断力を奪うための3つの心理的圧力を同時にかけています。

第一に、権威性の演出です。詐欺グループは警察を名乗り、「捜査員には専用の携帯電話が配布されている」という設定まで用意して、自分たちが正規の捜査機関であるかのように装いました。後のビデオ通話では偽の「警察手帳」や「検察官証」まで提示しています。権威ある存在からの指示は、人間が疑いを持ちにくくなる典型的な心理的トリガーです。

第二に、恐怖の植え付けです。詐欺グループはH氏本人に資金洗浄への関与疑いがあり、逮捕・拘留の可能性があると告げました。報告書は、H氏が「マネーロンダリングに関与しているという疑いは、たとえ冤罪であっても経理担当者としては致命的である」という恐怖に駆られ、正常な判断能力を失ったと認定しています。自らの職業人生を脅かされる恐怖が、冷静な事実確認を妨げました。

第三に、孤立化です。詐欺グループはH氏に家族への口外を禁止し、さらに家族を外出させるよう仕向けました。報告書によれば、H氏は詐欺グループの指示で家族に外出を依頼し、家族が帰宅した際も通話を続けて会話や挨拶すらしなかったとされています。相談できる相手から物理的・心理的に切り離すことで、詐欺グループはH氏を完全に支配下に置きました。

この3つの圧力を同時にかけることで、経験豊富な経理部長であっても、事実確認という当然の行動を取れない状態に追い込まれたのです。

巧妙さ②:事前の情報収集による信憑性の演出

詐欺グループの手口が巧妙だったのは、H氏個人に関する情報を事前に把握していた点です。

報告書によると、詐欺グループはビデオ通話の中で、H氏の氏名や生年月日といった個人情報をあらかじめ把握したうえで会話を進めていました。さらに、栗栖社長や田中取締役といったはてなの具体的な関係者の名前を挙げて、彼らも捜査対象であると告げています。標的の個人情報と勤務先の内部情報を事前に押さえておくことで、詐欺グループは「本物の捜査機関だからこそこれだけ知っている」という誤信を効果的に作り出しました。

加えて、偽の捜査資料、H氏名義(姓名の順序を逆にしたもの)の偽の銀行カード、偽の逮捕状の写真まで送付しています。視覚的な「証拠」を次々と提示することで、H氏の疑念が芽生える隙を与えませんでした。こうした作り込みは、標的を事前に調査し、シナリオを準備する組織的な詐欺グループの特徴です。

巧妙さ③:送金への抵抗を無力化する「論理」の提供

人は自分の会社の口座から見知らぬ相手へ多額の送金を行うことには、強い心理的抵抗を覚えます。詐欺グループは、この抵抗を打ち消すための巧妙な「論理」を用意していました。

最初の不正送金の際、H氏は「指示された処理を実行すると資金が流出してしまうのではないか」という疑問を持ちました。これは正常な警戒心です。しかし詐欺グループは、「当該振込は凍結口座への振込であって、捜査の一環であるから振込に該当せず、後で資金は戻る」と説明しました。H氏はこの説明を信じ、送金を実行してしまいます。

この「後で戻る」「これは正式な振込ではない」という論理は、被害者の中にある送金への抵抗感を、捜査協力という大義名分で上書きするものです。実際の資金移動が行われているにもかかわらず、H氏は「捜査協力のための一時的な手続きであり、実害はない」と誤認し続けました。報告書は、H氏が個人口座での振込操作についても、実際に送金が実行されているという認識がなかったと認定しています。抵抗感を生む行為の意味そのものを、攻撃者が再定義してしまったのです。

巧妙さ④:リモートデスクトップによる正規アカウントの乗っ取り

技術的な側面で最も巧妙だったのは、リモートデスクトップを使った端末の乗っ取りです。

詐欺グループは、H氏に「捜査協力」の名目でリモートデスクトップをダウンロード・実行させました。H氏はそれがどのようなアプリケーションであるかを知らないまま実行し、結果として貸与PCが詐欺グループに遠隔操作される状態になりました。

この手口の巧妙さは、攻撃者自身が認証情報を破る必要がない点にあります。端末を乗っ取れば、その端末で正規にログインしているオンラインバンキングのセッションや、保存された認証情報をそのまま利用できます。実際、H氏はオンラインバンキングのID・パスワードを暗号化せずにデスクトップのExcelファイルに保存していたため、詐欺グループはこれを閲覧し、はてな名義の口座情報を効率的に把握できました。外部から不正アクセスを試みるのではなく、正規利用者の端末そのものを乗っ取ることで、あらゆる技術的防御を内側から回避したのです。

さらに詐欺グループは、リモートデスクトップで送金操作を行う一方、証拠隠滅のために自ら生成した画像ファイルをゴミ箱に移動するなど、痕跡管理まで行っていました。

巧妙さ⑤:二段階認証を被害者自身の手で突破させる

多くの組織が最後の砦と考える二段階認証も、この手口の前では機能しませんでした。

Y銀行では振込に二段階認証が導入されており、詐欺グループが振込データを作成・申請しても、登録されたスマートフォンで内容を確認しなければ振込は実行できない仕組みでした。技術的には、この二段階認証がH氏のスマートフォンという「被害者しか操作できないもの」に紐づいていたため、詐欺グループだけでは突破できないはずでした。

しかし詐欺グループは、被害者自身に二段階認証を通させることでこの防御を無力化しました。振込承認のタイミングでH氏を別室から呼び出し、認証操作をさせたのです。H氏のスマートフォンには見覚えのない振込先が表示されていたはずですが、H氏は「捜査協力」と誤認していたため、表示内容を十分に確認せずに認証を通してしまいました。

これは、二段階認証やMFAといった技術的対策が、利用者の判断が正常であることを前提にしている、という本質的な限界を突いた手口です。利用者自身が騙されている状態では、被害者の手を借りて認証を突破できてしまいます。

巧妙さ⑥:被害者の行動を物理的に制御する

詐欺グループは、H氏の物理的な行動まで細かく制御していました。

報告書によると、詐欺グループはH氏にビデオ通話を維持したまま別室に移動するよう指示し、H氏はPCディスプレイの角度を調整して画面の視認性を制限したうえで、詐欺グループの監視を受けながら別室に移動しました。そして必要の都度、別室から呼び出される形で作業をさせられています。

この行動制御には複数の意図が読み取れます。ビデオ通話を維持させることで常時監視下に置き、被害者が我に返って第三者に相談する隙を与えません。画面を隠させることで、送金の全体像を被害者が俯瞰して異常に気づくことを防ぎます。作業を細切れにして呼び出すことで、被害者が一連の操作の意味を統合的に理解できないようにしています。夜間も通話を維持したまま就寝させ、翌朝そのまま作業を再開させるという徹底ぶりでした。

巧妙さ⑦:組織の正常性バイアスを利用した牽制の回避

最後に、この手口は個人だけでなく、組織的な牽制の仕組みまで巧みにすり抜けました。ただしこれは詐欺グループが直接組織を操作したというより、H氏を通じて組織の心理的な隙を突いた結果です。

経理メンバーのD氏は、Y銀行の口座残高がわずかになり、見知らぬ相手への振込があることに気づいて、チャットでH氏に確認しました。これは牽制が機能しかけた瞬間でした。しかしH氏が「その件は状況を把握済みですので、後ほど説明します。資金移動を先にお願いします」と回答したことで、D氏は「H部長のことだから何か理由があるのだろう」と考え、それ以上追及しませんでした。

同様に、Y銀行から田中取締役へ「9,999万円の入金が3回あったが何か」という照会電話が入った際も、田中取締役は自ら承認した給与支払いのための資金移動だと考え、口座の入出金を直接確認しませんでした。

報告書は、経理メンバーの間に「度重なる多額の資金移動について正常性バイアスが働いていた」と認定しています。上司である経理部長からの指示であること、金額が大きいことがかえって「何か正当な理由があるはずだ」という思い込みを生み、異常を異常として認識する力を鈍らせました。詐欺グループは直接組織を操作したわけではありませんが、経理部長という権限者を掌握することで、その権限に付随する組織内の信頼を自動的に利用できたのです。

ボイスフィッシング(ビッシング)とは――電話を起点にした詐欺の総称

ここまで見てきたとおり、今回のはてな事案の起点は電話でした。この電話による詐欺は、ボイスフィッシングと呼ばれる手口に該当します。改めて、この手口の一般的な特徴と近年の被害動向を整理します。

ボイスフィッシング(ビッシング)とは、音声(Voice)とフィッシング(Phishing)を組み合わせた言葉で、電話を通じて被害者を騙し、個人情報や金融情報の窃取、あるいは送金の実行をさせる詐欺の総称です。従来のメールを使ったフィッシングが文面で標的を騙すのに対し、ボイスフィッシングは電話という即時性の高い双方向のコミュニケーションを用いる点に特徴があります。オペレーターがリアルタイムで被害者の反応を見ながら心理を操作できるため、メールよりも執拗かつ巧妙なアプローチが可能になります。

近年、このボイスフィッシングは法人を標的とした大型被害を各地で相次いで引き起こしています。特に2025年秋以降は、銀行を装った自動音声を起点に企業のネットバンキング情報を窃取し、数億円規模を不正送金させる被害が全国で連鎖しました。主な事件と被害額、概要を整理すると以下のとおりです。

事件 被害額 概要
新潟県内の企業(2025年11月) 約1億9,000万円 取引先金融機関を名乗る自動音声と担当者の誘導により、ネットバンキングの認証情報を窃取され不正送金された
滋賀銀行を装った事案(2025年11月) 計約2億円 同行を装う自動音声の電話が県内中小企業40社超にかかり、9事業所が偽サイトでネットバンキング情報を入力し送金被害。後にこの一連の事案で4名が逮捕され、19事業所から計3億5,000万円を詐取したことが判明
山形鉄道(2025年3月) 約1億円 山形銀行を装った自動音声を起点に、偽オペレーターと偽サイトへの誘導でログイン情報とワンタイムパスワードを窃取された。関与した容疑者が後に逮捕
琉球銀行の顧客企業(2025年4月) 約1億円 県内企業が同様の手口によるボイスフィッシングで不正送金被害を受けた
福岡銀行を装った事案(2025年11月) 約8,000万円 同行をかたるボイスフィッシングで取引先企業6社が被害。西日本シティ銀行や筑邦銀行も即時振込を一部停止
香川県内の企業(2025年3月) 約5,000万円 銀行を装った自動音声を起点とする同様の手口で不正送金された
石川県内で相次いだ事案(2025年) 1億円超 銀行をかたる電話と偽サイト誘導で法人口座情報を窃取される被害が相次いだ

これらの事案に共通するのは、銀行を装った自動音声で「更新しないとネットバンキングが使えなくなる」といった不安を煽り、偽サイトへ誘導して認証情報とワンタイムパスワードをリアルタイムで窃取するという手口です。被害を受けて、北陸銀行・北國銀行・山陰合同銀行・西日本シティ銀行などが法人向けネットバンキングの即時振込を相次いで一時停止する事態に至りました。警察庁も2025年秋以降、法人口座を標的にしたボイスフィッシングについて注意喚起を行っています。

こうしたボイスフィッシングは、もはや個人の思いつきによる犯罪ではありません。ダークウェブの調査からは、電話詐欺が「Caller-as-a-Service(CaaS)」として採用・研修・報酬体系まで備えた組織犯罪エコシステムを形成し、産業化していることが明らかになっています。さらに、AIボイスクローニングによって家族や役員の声を偽装する手口も登場しており、脅威は年々高度化しています。

疑似事例で理解するボイスフィッシングの典型的な流れ

自社で同様の被害を想定するために、法人を狙うボイスフィッシングの典型的な流れを、上記の実際の被害事例をもとにした疑似的なシナリオとして整理します。以下は特定の企業の事案ではなく、複数の事案に共通する手口を組み合わせた架空のケースです。

ある企業の経理担当者のもとに、取引先金融機関を名乗る自動音声の電話がかかってきます。「システム更新のため手続きが必要です。手続きを行わないとネットバンキングがご利用いただけなくなります」といった内容で、緊急性と不安を煽ります。担当者が案内に従って番号を操作すると、オペレーターを名乗る人物に電話が転送されます。オペレーターは丁寧な口調で「確認のため公式サイトにアクセスしてログインしてください」と、正規サイトに酷似した偽サイトのURLを案内します。

担当者が偽サイトにネットバンキングのID・パスワードを入力すると、その情報はリアルタイムで詐欺グループのサーバーに送信されます。さらにオペレーターは「認証コードが届きますので読み上げてください」とワンタイムパスワードを聞き出し、これを使って詐欺グループが即座に不正送金を実行します。担当者が異変に気づいたときには、すでに多額の資金が外部口座へ流出しているのです。

このシナリオで注目すべきは、攻撃の各段階が「銀行の権威を借りた信頼」「システム停止への不安による緊急性」「電話越しの誘導による偽サイトへのアクセス」「音声でのワンタイムパスワード窃取」という要素で構成されている点です。今回のはてな事案は、この銀行装いのパターンとは異なり警察を装う偽装でしたが、権威・不安・緊急性を用いて被害者の判断力を奪い、リアルタイムで金銭を窃取するという骨格は共通しています。ボイスフィッシングは装う相手(銀行・警察・取引先・役員など)を変えながら、同じ心理操作の構造を繰り返しているのです。

なぜこの手口を理解することが重要なのか

この事案が示すのは、現代の詐欺が「技術」と「心理」の両面から、組織の防御を体系的に突き崩してくるという現実です。

一つひとつの防御——認証情報の管理、二段階認証、職務分掌、複数人による確認——は、いずれも正しく設計されていれば有効なものでした。しかし詐欺グループは、それぞれの防御が前提としている「利用者の判断が正常であること」を、心理操作によって崩すことで無力化しました。

したがって、対策も単一の技術で完結するものではありません。はてな事案の全容と再発防止策で解説したとおり、個人の判断に依存しない仕組み——単独では送金が完結しない権限設計、承認上限金額の設定、異常検知のための通知、遠隔操作ツールの実行制限——を組織として整備することが不可欠です。加えて、こうした具体的な手口を従業員に周知し、「自分が騙されるかもしれない」という前提で行動できるようにする教育が重要になります。特に、警察や検察を名乗る連絡、緊急性を強調する指示、他者への相談を禁じる要求は、それ自体が詐欺の兆候であると認識できるようにしておくことが、被害を防ぐ第一歩です。

国内では社長を騙りLINEに誘導するCEO詐欺をはじめ、法人を標的にした金銭詐取が高度化・多様化しています。攻撃者がどこを、どのように狙うのかを理解することが、次の被害を防ぐための最も確実な備えとなります。


出典