米連邦準備制度理事会(FRB)の元上級顧問ジョン・ハロルド・ロジャース(John Harold Rogers)氏が、中国情報機関員との関係やFRBの非公開情報の共有を巡って捜査を受け、2026年7月15日に禁錮38カ月の判決を受けました。
ロジャース氏はFRB国際金融局(Division of International Finance)で2010年から2021年まで上級顧問を務め、金融政策や連邦公開市場委員会(FOMC)に関する非公開情報へアクセスできる立場にありました。
米司法省によると、ロジャース氏は中国情報機関員とされる人物らにFRBの制限情報を共有し、その後の内部調査で「FRBの制限情報を外部に共有したことはない」と虚偽の説明をしました。
一方、2026年2月の陪審裁判では、より重い「経済スパイ活動の共謀罪」については無罪となっています。ロジャース氏が刑事責任を認定されたのは、捜査官への虚偽供述です。
2026年9月30日にCNBCが公開した調査報道では、裁判で提出されたメッセージ、録音、写真、FRB文書などを基に、ロジャース氏が中国側の人物と接触し、大学での講義、金銭的利益、私生活上の支援などを通じて関係を深めていった過程が詳しく報じられました。
本件は、マルウェアや不正アクセスを使わず、組織内部の正規権限を持つ人物との長期的な関係構築を通じて情報へ接近する「人的情報収集(HUMINT)」と内部不正対策の両面で示唆のある事例です。
元FRB上級顧問を巡る事件のサマリー
- ジョン・ハロルド・ロジャース氏は2010~2021年、FRB国際金融局の上級顧問として勤務しました。
- FRBの金融政策、FOMC、経済分析などの非公開・制限情報へアクセスできる立場にありました。
- 米司法省は2025年1月31日、ロジャース氏を経済スパイ共謀と虚偽供述の容疑で逮捕・起訴しました。
- 米司法省によると、ロジャース氏は中国情報機関員「Hummin Lee」とされる人物らと中国国内のホテルなどで会い、FRB情報を共有しました。
- 制限文書を印刷して中国へ持参したほか、機密区分を示す表示を外して個人メールへ送信したケースも確認されています。
- 2020年2月4日のFRB監察総監室(OIG)の聴取で、外部への情報共有を否定する虚偽供述をしました。
- 2026年2月3日、陪審は経済スパイ共謀罪について無罪、虚偽供述について有罪としました。
- 2026年7月15日、ワシントンD.C.連邦地裁は禁錮38カ月、釈放後12カ月の監督付き釈放を言い渡しました。
- CNBCは9月30日、裁判資料やメッセージなどを分析し、中国側との関係形成に私生活、大学ポスト、金銭的利益が絡んでいたと報じました。
- 米上院は2022年、中国が少なくとも2013年からFRB職員や経済研究者を標的に情報収集を行ってきたとの調査報告書を公表しています。
- 2026年9月24日にはFRB-OIGが別件で、退職者によるFOMC機密・機微情報の持ち出しを十分に検知・対処できなかったとして、FRBの情報管理・退職者管理に9件の改善勧告を出しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 対象者 | John Harold Rogers |
| 元所属 | Federal Reserve Board of Governors |
| 役職 | Division of International Finance Senior Adviser |
| FRB在籍期間 | 2010~2021年 |
| 逮捕 | 2025年1月31日 |
| 主な起訴内容 | 経済スパイ共謀、虚偽供述 |
| 陪審評決 | 経済スパイ共謀罪は無罪、虚偽供述は有罪 |
| 判決 | 禁錮38カ月、監督付き釈放12カ月 |
| 判決日 | 2026年7月15日 |
| 主な情報 | FOMC、金融政策、経済データ、対中関税議論などの制限・非公開情報 |
| 捜査 | FBI、FRB-OIG |
中国の会議で接触、米当局は相手を中国情報機関員と認定
CNBCによると、ロジャース氏が後に「Hummin Lee」を名乗る人物と初めて接触したのは2013年、中国・上海の復旦大学で開かれた会議でした。
Leeは大学院生を名乗ってロジャース氏に接近しました。
米司法省はその後、Leeを中国の情報・治安機関で活動する人物と位置付けています。司法省の2026年7月の発表では、ロジャース氏とLeeの「秘密の関係」が2017年から形成され、その後数年間にわたり中国国内で接触を続けたとしています。
会合は「講義」や学術交流として設定されましたが、実際にはホテルの一室などで少人数を相手に実施され、Lee側から指定されたFRB関連の情報が議題となりました。
米司法省によれば、Leeはロジャース氏に特定情報の収集を依頼していました。
これは、外部からシステムを侵害して情報を盗むサイバー攻撃とは異なります。
情報へアクセスできる人物との関係を長期間かけて構築し、その人物自身に情報を取得・持ち出させる人的情報収集の形です。
FOMCや対中関税、FRB理事向け資料などが対象
2025年の起訴時、米司法省が列挙した対象情報には次のようなものが含まれていました。
- FRB独自の経済データセット
- 中国を対象とした関税政策に関する内部議論
- FRB理事向けブリーフィング資料
- FOMC内部の議論
- 今後のFOMC発表に関する情報
FRBの金融政策、とりわけ政策金利の変更は、米国債、為替、株式、デリバティブなど世界中の金融市場へ直接影響します。
司法省は、政策決定前に内容を把握できれば、米国債などの売買で大きな経済的利益を得られる可能性があると説明しました。
ロジャース氏は制限文書を印刷して中国へ持ち込んだほか、文書上の機密区分を示す表示を取り除いたうえで個人メールアドレスへ送信し、中国の復旦大学の教授へ転送したと司法省は説明しています。
CNBC調査で明らかになった「情報を求める前の関係構築」
CNBCの9月30日の調査報道では、裁判資料として提出されたテキストメッセージ、写真、音声記録などを基に、中国側がロジャース氏との関係を長期的に深めていった過程が描かれています。
Leeはロジャース氏へ誕生日やクリスマスのメッセージを送り、プレゼントを贈り、中国の大学での講義を手配しました。
2016年の米大統領選後には、ドナルド・トランプ氏の対中政策や「為替操作国」認定の可能性について質問しています。
その後、FRBの政策や米中貿易問題について、より具体的な質問や資料要求が行われるようになりました。
米司法省も判決発表の中で、ロジャース氏がLeeから、
- 新しい妻との関係に関する支援
- 中国の大学での教授職
- 中国の大学などからの経済的利益
を受けていたとしています。
ロジャース氏自身も捜査官に対し、Leeに「すべてを負っている」という趣旨の発言をしたと司法省は説明しています。
対外情報機関によるリクルートでは、最初から機密情報の提供を求めるとは限りません。
学術交流、仕事、金銭、人間関係などを通じて対象者との信頼関係や依存関係を作り、その後に情報要求を具体化させる手法があります。
セキュリティ対策Labでは、Five Eyesが2026年に警告した、中国軍情報機関がLinkedIn、Indeed、Upworkなどを使って政府・軍・研究者へ接近する手法も取り上げています。
Five Eyesが警告、中国軍諜報機関がLinkedIn・Indeed・Upworkを使って政府・軍・研究者を採用工作
大学での「講義」が情報提供の場に
米司法省は、ロジャース氏と中国側との会合について、表向きは大学での「講義」として行われていたと説明しています。
しかし実際には、中国国内のホテルの一室などでLeeや関係者と会い、Leeから指定されたFRBの情報を伝えていました。
米司法省によると、Leeはロジャース氏が提供した情報をもとに中国政府向けレポートを作成していることをロジャース氏も理解していました。
2025年の起訴状では、2023年にロジャース氏が中国の大学で非常勤教授として約45万ドルの報酬を受け取ったとも主張されています。
ただし、この金銭的利益を含む一連の行為について陪審は、経済スパイ活動の共謀を合理的疑いを超えて立証したとは認めませんでした。
経済スパイ共謀罪については無罪となっています。
2020年の内部調査で「Never」と回答、虚偽供述で有罪
刑事裁判で有罪となったのは、FRB-OIGの捜査官に対する虚偽供述です。
2020年2月4日、ロジャース氏はFRB-OIGの聴取を受けました。
捜査官から、
「FRBの制限情報をFRB外へ共有したことがあるか」
と直接尋ねられた際、ロジャース氏は「Never(ない)」と回答しました。
その後の捜査と裁判では、FRB情報を個人メールへ送信したことや、中国側関係者へ共有したことを示す資料が提出されました。
2026年2月3日、陪審はこの供述を虚偽と認定しました。
7月15日、連邦地裁はロジャース氏に禁錮38カ月、釈放後12カ月の監督付き釈放を言い渡しました。
検察側は禁錮60カ月を求刑していました。
経済スパイ共謀罪では無罪―「中国のスパイとして有罪」ではない
本件を扱う際には、刑事裁判の結果を正確に区別する必要があります。
ロジャース氏は2025年1月、経済スパイ活動の共謀と虚偽供述の2つの罪で起訴されました。
2026年2月の陪審評決では、
- 経済スパイ活動の共謀:無罪
- 捜査官への虚偽供述:有罪
となりました。
ロジャース氏の弁護側は、一貫して「中国のスパイとして活動したのではない」と主張しています。
CNBCに対しても弁護人は、ロジャース氏が中国側へ価値ある情報を意図的に提供したとの検察側の主張を争っています。
一方、米司法省は判決発表でも、ロジャース氏が中国情報機関員へFRBの制限情報を共有し、その事実を隠すため捜査官へ虚偽説明を行ったとしています。
したがって、「中国のスパイとして有罪判決を受けた」とする表現は正確ではありません。
中国は2013年以前からFRBを標的にしていたと米上院が報告
ロジャース氏の事件だけが、FRBと中国を巡る情報収集問題ではありません。
米上院国土安全保障・政府活動委員会は2022年、「China’s Threat to the Fed: Chinese Influence and Information Theft at U.S. Federal Reserve Banks」と題する調査報告書を公表しました。
報告書はFRBの内部資料やFBIから提供された情報などを基に、中国が少なくとも2013年からFRBの職員や経済研究者を対象に情報収集や影響力工作を行ってきたとしています。
同報告書で確認された手法には、
- 中国の人材招聘プログラムへの勧誘
- 中国大学での教授職・研究職の提供
- 金銭的報酬
- 中国国内での学術交流
- FRB職員への経済情報の要求
- 中国滞在中の拘束や家族への威圧
などが含まれていました。
あるFRB職員は中国当局から複数回拘束され、経済情報の提供に協力しなければ家族や本人に不利益を与えると脅されたと報告されています。
米上院は、FRBが研究交流の開放性を重視する一方、外国政府による情報収集への対抗体制やFBIとの連携、外国との関係申告制度が十分ではなかったと指摘しました。
FRBでは2026年にもFOMC情報の持ち出しを巡りOIGが警告
ロジャース氏とは別の事案ですが、FRBの機微情報管理を巡る課題は2026年にも続いています。
FRB-OIGは2026年9月24日、「Findings from the Audit of the Board’s Offboarding Process」と題する管理上の警告を公表しました。
監査では、退職するFRB職員がFOMCの機密情報やその他の機微情報を持ち出した可能性がある事案について、FRB側が十分に把握・対応できなかったと指摘されています。
OIGは、
- 退職者による情報持ち出しを特定する能力
- インシデント発生時の調査
- 情報持ち出しへの対応
に統制上の欠陥があるとして、正式な監査完了前に管理警告を出しました。
計9件の改善勧告が示されています。
この事案はロジャース氏の事件とは別件ですが、FOMCなどの金融政策情報が国家レベルの情報収集対象になり得る一方、内部者による持ち出し対策も継続的な課題であることを示しています。
金融政策情報は「国家機密」と「市場情報」の両方の価値を持つ
FRBが扱う金融政策情報には、軍事技術や兵器設計図とは異なる性質があります。
しかし政策金利、量的緩和、国債売買、経済見通しなどの情報は、市場公表前に入手できれば巨額の取引利益につながる可能性があります。
2025年の起訴時、米司法省は中国が当時約8,160億ドルの米国債を保有していることを挙げ、FRBの政策変更を事前に把握できれば、債券や証券売買で戦略的利益を得られる可能性があると説明しました。
2026年の判決発表では、司法省は中国が約1.5兆ドル規模の米国債を取引する際に、政策金利の事前情報が「莫大な利益」につながり得るとしています。
数字は算定時点や保有範囲が異なるため単純比較はできませんが、司法省がFRB情報を単なる社内資料ではなく、国家安全保障上の経済情報として扱っている点は共通しています。
企業でも「機密情報はシステムを破らずに持ち出される」
本件は中央銀行という特殊な組織で発生しましたが、情報管理上の構造は一般企業にも共通します。
ロジャース氏は、外部攻撃者としてFRBのネットワークを突破したわけではありません。
正規ユーザーとしてアクセスできる情報を、
- 印刷する
- 個人メールへ送る
- 外部の研究者へ転送する
- 海外へ持参する
ことで組織外へ移動させていました。
そのため、企業の内部不正対策では「アカウントが正規だから安全」とは判断できません。
特に、
- 個人メールへの転送
- USB・外部ストレージ
- 大量印刷
- 海外出張直前のファイルアクセス
- 機密ラベルの削除
- 外部共有
- 個人クラウド
- 退職前の大量アクセス
などは、ユーザー本人の認証が正常でも監視対象にする必要があります。
学術交流・副業・海外ポストもカウンターインテリジェンスの対象
中国を含む外国政府による情報収集では、学術交流や大学ポストが接点になるケースがあります。
米上院の2022年調査でも、FRB職員に対して中国大学の教授職、人材招聘プログラム、研究費などが提示された事例が確認されています。
ロジャース氏のケースでも、中国の大学での講義や教授職が、中国側人物との関係の一部となっていました。
企業でも、
- 大学での非常勤講師
- 海外企業のアドバイザー
- 学会・国際会議
- コンサルティング副業
- 海外研究機関との共同研究
そのものを禁止する必要はありません。
一方、機密情報へアクセスできる従業員については、
- 外部報酬の申告
- 海外組織との兼業
- 外国政府・政府系機関との接触
- 海外渡航
- 研究データの持ち出し
をリスクベースで管理する必要があります。
セキュリティ・内部監査部門が確認したいポイント
ロジャース事件とFRB-OIGの指摘から、企業や公的機関では次の統制を確認できます。
情報持ち出し
- 個人メールへの送信を監視・制限しているか
- USBなど外部媒体へのコピーを記録しているか
- 機密文書の大量印刷を検知できるか
- 機密ラベル削除やファイル変換を監視できるか
- DLPアラートを件数だけでなく利用者単位で分析しているか
人事・権限管理
- 退職予定者のアクセスを重点監視しているか
- 退職直前の大量ダウンロードを検知しているか
- 高機密情報への権限を定期的に棚卸ししているか
- 業務上不要になった権限を即時削除しているか
海外接触・副業
- 機密情報にアクセスする従業員の外部報酬を把握しているか
- 海外大学・研究機関での職務を申告させているか
- リスクの高い国への渡航時に情報持ち出しルールを設けているか
- 外国政府・政府系機関との継続的接触を申告する仕組みがあるか
内部調査
- 捜査・監査時にメール、印刷、ファイル操作、外部送信ログを横断して確認できるか
- 不審なユーザーを本人へ通知する前に証拠保全できるか
- 法務、人事、内部監査、セキュリティが共同で調査できる体制になっているか
中国による技術・情報獲得では「サイバー攻撃以外」の経路も見る
中国を巡る情報窃取では、国家支援ハッカーによる侵入が大きく報じられます。
一方、ロジャース事件では、情報へアクセスできる人物そのものへの接近が中心でした。
同じ2026年には、米司法省が元GoogleエンジニアによるAI技術の窃取・経済スパイ事件でも有罪判決を公表しています。
Google元エンジニア、AI技術の窃取と中国への経済スパイ活動で有罪
企業の経済安全保障では、
「ネットワークへ侵入されていない」
「マルウェアは検知されていない」
という理由だけで情報窃取リスクを低いと判断することはできません。
外部からのサイバー攻撃と同時に、正規権限を持つ従業員、研究者、委託先との関係構築を利用した情報収集も監視対象に含める必要があります。
出典
- Former Adviser to Federal Reserve Board of Governors Sentenced to Federal Prison Term – U.S. Department of Justice
- Former Senior Adviser for the Federal Reserve Indicted on Charges of Economic Espionage – U.S. Department of Justice
- Inside Man: How Chinese spies used lies, love and betrayal to target the Federal Reserve – CNBC
- Former Fed Adviser Is Acquitted of Economic Espionage Conspiracy Charges – The Wall Street Journal
- China’s Threat to the Fed: Chinese Influence and Information Theft at U.S. Federal Reserve Banks – U.S. Senate Committee on Homeland Security and Governmental Affairs
- Findings from the Audit of the Board’s Offboarding Process – Office of Inspector General for the Federal Reserve Board and CFPB







